令和三年三月十三日(土)。本部事務所に於いて、かつて民族革新会議同人に名を連ね、維新運動の思想的・行動的リーダーとして活躍されながらも、志半ばに幽明境を異にされた先輩同人八名の慰霊祭を本部にて斎行した。 (世話人:山口申、祭主:犬塚博英、斎主:丸川仁) ■達豊大人命(至誠同志会会長・民族革新会議初代議長) ■松本効三大人命(日本青年旭心団副団長・民族革新会議副議長) ■高松正吉大人命(猶存社社主代行・青空議会代表) ■衛藤豊久大人命(日本青年社会長) ■矢代和剣大人命(国粹青年隊総裁) ■小早川久之大人命(菊水国防連合総裁) ■石川進大人命(防共挺身隊副隊長・宝来誠会会長) ■岡田尚平大人命(尚武会代表・民族革新会議議長) 【物故同人慰霊祭 祭文】 民族革新会議物故同人、六柱の御霊に民族革新会議議長犬塚博英 謹んで祭文を奏上致します。 本年は六柱の大人命らが民族革新会議を結成して満四十年の節目を迎えます。第二次安保騒動の喧騒も過ぎ去り、我が国が経済繁栄に現を抜かしている時期に、民族運動は如何にあるべきかを模索する凡そ三十代の在京右翼民族派の中核的活動家が、それまでの勉強会や運動を通じ強い絆を深め、民族運動に新しい歴史を築くことを合言葉に、右翼の中ではともすると「敵側の言葉」とも誤解されかねない「革新」の旗印を鮮明にした団体名を冠しました。 当時の大所の愛国、右翼団体協議体の指導者からは、時には異端児扱いされながら、ある時には「愚連隊」呼ばわりされ、民族運動陣営に一大旋風を巻き起こしたことは間違いないでしょう。旧会員全員で紋付はかまを誂え、歌舞伎町を闊歩する様子などは、まさに一世を風靡する絵巻物でもあるようです。 しかし、そうした一見カブキ者の所作のみならず、憲法、領土、教育問題などで全国的規模の右翼の大同団結を諮る「共闘会議方式」を確立、全国の同志に運動面での方向性を発進していったことは、大きな足跡として残るものでしょう。ゴルバチョフ・ソビエト共産党書記長来日時に、日比谷野外音楽堂に三千名を結集し、北方領土奪還共闘会議の運動を展開したことなどは、その代表ともいえましょう。 平成四年の「風の会」参議院選挙、平成七年の「終戦五十年決議」反対運動など、それぞれ大きな成果を挙げ、民族運動の新しい地平を切り開く、その先頭に立って戦っていきました。初代議長・達豊、二代・山口申、三代・岡田尚平の議長を経て、山口申議長が三十年近くに渡って粉骨砕身努力を尽くし、一人民族革新会議の為のみならず、多くの同志運動団体との協調、共闘体制を確立してきました。二年前不肖・私が議長職を受け継ぎ、新しい世代を中心に、民族革新会議の伝統を継承しながら、冷戦構造が崩壊した新しい時代の民族運動の在り様を確立すべく微力ながら模索しています。 〈達豊同人〉 この間、初代議長、達豊先輩は平成二年に享年五十六歳という若さで亡くなられました。豪快にして自由奔放、薩摩隼人を髣髴とさせる熱血漢は、第一次安保闘争の後、若手活動家が集まる会合を呼びかけるに、事務所の電話もなく速達のはがきを以ってしたと聞きました。民革同人の最初の旅立ちでした。 〈高松正吉同人〉 平成六年、高松正吉先輩の満六十歳、還暦祝いを若い頃から通い詰めた歌舞伎町「蝦夷御殿」で開いた折には、大いに賑わったものです。昭和五十二年に私が入会した時には高松先輩は既に光を失っておられ、幾度も生死の境を彷徨われたこともあり、よく還暦を迎えられたものだと、しみじみと喜びを共にしたものです。全員で愛唱歌「梅と兵隊」を大合唱した際に、高松さんの目から一筋の涙が流れていたのを今でも忘れません。かっては博多・中州の夜の街を、上京してからは赤坂、銀座を遊び歩いたという高松先輩が、毎週土曜日の新宿西「青空議会」を最大の生き甲斐とし、常に弁士の訴えに耳を傾け、時には辛らつな、また温かい寸評を下し、叱咤激励されたものです。 〈松本効三同人〉 高松さんの熱情に応えるかのよう松本効三先輩は「青空議会」の最も熱心な弁士、何時もトリを務め、松本さんの演説は「新宿の名物」とも、風景ともなって、多くの庶民のフアンがいました。万年青年で病気一つしたことのないほど元気だった松本さんが、「風の会」選挙、その一年後の野村秋介さんの壮烈な自決の翌年に突然病魔に犯され、平成七年に幽明境を異にしたことは、民革のみならず、右翼民族派陣営全体の大きな損失でした。多くの運動家に、そして一般社会人に愛された松本さんを惜しむ声は、新宿西口の靴磨きのオバサンたちが香典を包んできたことにも現れていました。民族革新会議の元気の源、かつ女房役でもあった松本さんの死去は民革にとって大きな痛手となりました。 それから三年後には透析を繰り返し、病院通いと縁の切れなかった高松さんとお別れしました。衛藤会長が還暦は盛大に祝おうと強調していたように、達、松本両先輩は還暦を迎えることなく、生き急ぎ、死に急ぎするかのように、若くして現生を卒業されました。 〈衛藤豊久同人〉 衛藤豊久会長も肝臓に持病を抱えながらも東奔西走、尖閣に灯台を建設するという一大金字塔を立てたのみならず、タイ、アフガン、アメリカと世界を股に架けて忙しく飛び歩きました。享年は七十歳ですが、晩年は大病を患い、一度は奇跡的な回復を見たものの、その後の長患い、実際に大活躍されたのは六十代前半まででした。「右翼は預言者で無ければならない」、時代を先取りし、それに供え準備すべき―余人を以って代えがたい、惜しみても余りある大きな存在、生涯一貫した運動家でした。血盟の友だった山口申会長の献身的な看病、逝去の悲しみは如何ばかりだったかを、しみじみと追憶します。 〈矢代和剣同人〉 矢代和剣総裁は私と同年生まれ、その器量は若くして発揮され、全国に幅広い交友を持ち、全愛会議や一月会との関係は民革の呼び掛けを大きく補佐し、連帯の輪を広げました。先帝陛下ご在位六十年の佳節を祝う時期に、皇居にロケット弾を打ち込むなどした極左過激派集団に敢然と戦いを挑み、岡崎幹部、中村隊員が報復爆弾攻撃を挑み、不幸にして中村君が両目失明、大半の指を欠損するという犠牲を出したものの、その決死の覚悟の程を極左陣営に知らしめ、以後の彼らの妄動を抑止する大いなる成果を挙げました。晩年は囹圄の身で大病を患い、奇跡的な社会復帰を果たし、還暦を祝うことが出来たものの本復には至らず、六十一歳の若さで逝去されました。 〈小早川久之同人〉 十代後半から運動の道に入り、兄弟家族して一族勤皇の小早川久之隊長は神奈川県の要であり、全愛会議とのパイプ役でした。小早川隊長もまた、晩年は健康を害し、最後には一人で出歩くこともママならない病状でしたが、亡くなる半年前に岡田、山口、犬塚でご自宅を訪ね、大いに昔語りなどを楽しんだことは、今では心に残る思い出です。菊水国防隊、後に菊水国防連合、大楠公・楠木正成を仰募する思いは、昇天する日を大楠公と同じ、湊川の戦の日、5月25日を命日に選んだことは決して偶然ではなかったでしょう。 六柱の御霊何方もが余りに若く、衛藤、小早川両先輩は七十歳を迎えたとはいえ、晩年はどちらも病床にあり、必ずしも元気で長生きされたとは言い難いものがあります。人間の持ち時間、寿命は時間的な長短ではなく、如何に真剣、充実した生を全うしたかにあるもの、そうした意味では何方もが普通の人の何倍もの生を楽しみ、生を全うしたといえるでしょう。 ここに並ぶ民族革新会議同人に中には、存命中の諸先輩とは親しくご厚誼頂くことのなかった者もいます。しかし、山口申会長や岡田尚平先輩から、その人となりや生き様を伺い、生死・幽明を超えて深く交わりご指導頂いている気になるのも不思議であり、有難いことです。先輩方が大活躍された時期に比べて、現在の社会状況下での民族運動は逼塞し、政治的社会的影響力も薄れていることはまことに申し訳なく、認めざるを得ません。しかし、不肖・犬塚を先頭に同人一同、山口会長の指導の下、かっての民革の目指した新しい時代と歴史を開き築き上げるとの大眼目に添って、一致団結一丸となって、祖国日本の閉塞状況を打ち破っていくことをお誓います。 仰ぎ願はくば、我ら一同に先人の奔放不羈にして、猪突猛進する覇気を与え給え。大国シナを縦横無尽に翻弄した戦闘者の機略を与え給え。靴磨きのオバサンをしてファンとする人間力を形成せしめ給え。我ら一同、先人の築いた道統、伝統を守り、更にこれを継承発展させ、国家民族の主権と栄光を回復することを誓い、今回初の民族革新会議物故同人慰霊祭の祭文と致します。 願わくば幽明一体となって祖国日本を守らしめ給え、天皇国日本の維新の魁とならしめ給え。 平成二十五年三月二十三日 民族革新会議議長 犬塚博英
by minkaku-okuma
| 2021-03-18 18:04
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